3月23日・24日に横浜市・大倉山記念館で「大倉山ドキュメンタリー映画祭」が開催されました。
『犬と猫と人間と2』も神奈川県で初上映され、多くの方にお越しいただきました。
ご来場のみなさん、ありがとうございました。
監督からの映画祭レポートをお届けします。ぜひご覧ください。
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「映画の風、人の風」 宍戸大裕監督
23日と24日の2日間、横浜市大倉山記念館でドキュメンタリー映画祭が開かれました。
『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』も初日に上映して頂き、80名の席がほぼ満員となりたくさんの方に観て頂くことが出来ました。本当に有難うございました。僕も2日間で6本もの作品を観ることが出来、5人の監督の話を聞くことが出来ました。ふだん宮城にいると、スクリーンでドキュメンタリーを観る機会は限られがちなので、たっぷりと映画の風にあたることが出来贅沢な時間を過ごすことが出来ました。
さて、映画祭実行委員長の伊勢真一さんが「同じ映画を上映してもその場所や観客によって毎回反応が違う」という話をされていましたが、僕も同様のことを感じていました。今回『犬猫2』をご覧になった方はそれぞれどのような感想を持たれたでしょうか。
上映後にはプロデューサーの飯田さんとともに、舞台挨拶をいたしました。折しも2年前の3月23日、僕は人生で初めて石巻を訪れ、そして映画にも登場するお好み焼き屋の小暮さんと2匹の野良猫、オスのみーちゃんとメスのみーちゃんに出会いました。当時も、東京は桜が咲きはじめていましたが、石巻をはじめ東北地方はまだまだ小さなつぼみだったことを、大倉山記念館へとつづく坂道の途中に咲く桜を見上げながら思い出していました。
2年という月日はずいぶん昔のような気もするし、つい先頃のような気もします。先月、石巻で行った完成記念上映会の際に出会った女性は、「初めの1年は無我夢中で過ぎていた。2年が経ったいまは焦りばかりが募っている」という話を聞かせてくれました。大震災から月日が過ぎていくなかで、自分自身の暮らしのペースを取り戻そうとするのだけど、その度に気力が萎えてしまう、元気が出てこない、そしてそんな自分にまた焦りが募るのだと。
「映画が終わった後に映画について語ることはほんとはしたくない。だけど、それでも語るとすれば震災についての話になる。でもやっぱり、ほんとは震災について語ることもしたくない、と思っている。テレビのコメンテーターなんかが、震災の番組の後に利いた風なことを言ってるのを聞くとムッとすることがあるんだけど、僕自身も、じゃあ震災について語る時にそのコメンテーターたちと何が違うかと言えば、実は同じようなことを言ってしまってないかと不安になる。つまり、安易に”忘れちゃいけない”みたいなことを言ってしまってないかということなんだ」、と。
伊勢さんの話を聞きながら、僕は久しぶりに「含羞」という言葉が頭に浮かんできました。柔らかく言えば「はにかみ」でしょうか。でも、伊勢さんのそれははにかみというよりはやっぱり含羞という言葉がより近しい。他者の痛みや尊厳に対して想像力が働く人、自身の言葉や態度に抑制的で誠実な人、恥を知る人。含羞とはこうした人から醸されてくる、風のようなものだと僕は思っています。
僕は伊勢さんの風を感じながら、翻って自分自身が自作について話す時の態度を考えさせられました。僕も伊勢さんが言うように、上映が終わった後に映画について話すことが未だに苦手で上手く出来ません。あらかじめ何を話そうと考えてはいるのですが、いざ話していると嘘を語ってる訳でもないのに嘘を語ってるような気持ちになってしまう、それこそコメンテーターの“利いた風な口”と口ぶりが似て来てやしないかとだんだん不安になり、いつしかしどろもどろになっています。
映画を観終えた後、自分だったらその監督に何を話してもらいたいだろう?
自分自身を振り返ってみると、一観客として観終えた時、この監督にはこの話を、あの監督にはこの話を聞きたい、というような感想は持ちませんでした。ただ共通して感じたことは、この作品を作った人はどんな人なんだろう、そしてどんな気持ちでつくりはじめたのだろう、という漠然とした関心が残りました。もしかしたら僕と同じように考える方もいるかもしれないと思い、それじゃあと映画をつくりはじめた理由を語ってみようかとも思いました。
とはいえ、思い直してみると映画をつくりはじめた理由なんて、実際作品の良し悪しとは全然関係がないのであって、弁明のように話しはじめてもまたいつものようなしどろもどろになるのがオチ、となってしまいそうです。
さて、どうしたものだろう…。考え込みながら、ふと思いついたことがあります。上映後のトークを振り返ってみると、監督が話した内容を自分がほとんど覚えていない、ということです(もちろん、大切なところはメモしてますが)。たった2、3日前なのに。でも、内容は覚えていなくても、それぞれの監督が醸し出していた雰囲気は何となく鮮明に覚えている、風韻というかその「感じ」が心に残っているのが不思議です。記憶力が元々乏しいから、という理由もありますが、それだけでもない気がします。学生時代を振り返ってみても、先生が話していた授業の内容より、先生の話し方や仕草、立ち居振舞いや眼差し、つまりその雰囲気を覚えていることの方が多いと思うし、実は授業の内容よりも先生のそう
いう雰囲気から、より多くを教えられている気がします。清志郎が歌う「僕の好きな先生」、あれ好きです。
今回の映画祭でも、伊勢さんや岩佐さんという監督たちから流れていた風は心地よく、名講義につかるような調子でした。話の内容よりも、その話す人の「感じ」が残る、それに教えられるという時間でした。
…、はて、じゃあ僕は何を語ればいいのだろう。
ここまで振り返ってきたは良いけれど、自身の映画について語る際の態度についてはまだ何もまとまっていないことに、ハタ、と思い当たってしまいました。
僕の場合もしどろもどろの果てに、髪が短かったとか、声が低かったとか、そんな「感じ」だけが皆さんの中に残るのかもしれません。
ハタ、ハタ。